日野椀の歩み

■天文2年(1533年)城主・蒲生定秀が日野城下町をつくった時、綿向山下に散在していた木地師や塗師を集めて。塗師町・堅地町を設け「日野椀」の生産を始めました。塗師屋仲間の記録によると、蒲生家の城があった頃は、日野椀作りが盛んで、町の7〜8分の人がこの仕事で生活したと書かれています。

■桃山時代茶人として有名な千利休が『日野椀を十具調えて欲しい』と注文しています。このことからも、当時の茶人がもとめるほど優れた日野椀が作られていたことがわかります。

■貞秀の孫である氏郷が天正12年松阪へ、その後会津へと転封したため、一時日野椀作りは衰微しましたが、日野商人たちが日野椀を行商の主力商品としたことから再び日野椀の生産が盛んになり、江戸初期にはわが国有数の椀の産地となり広くその名が知られるようになりました。 江戸中期に刊行された図説百科事典である「和漢三才図解」には、優れた漆器の産地として日野が紹介されています。

■俳人であり、画家としても活躍した蕪村が日野椀の句を詠んでいます。『日野椀の 色に咲きたる 椿かな』蕪村の印象に残る椀が、赤系だったことをこの句は伝えています。 日野の画家・高田敬輔が、大阪から送った椀の注文書に『地引きの黒椀、十人前でき次第送ってほしい。日野椀は見栄えはしないが、丈夫なの椀なので「フダンソソウ」のお客に使いたい。』と書かれ、当時の日野椀が実用本位で一般大衆向きの椀だったといえます。

■この日野椀も江戸時代の終わり頃になると、日野商人の行商品としての魅力を失ったこと等が原因して残念なことに生産が途絶えてしまいました。

 

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